選択肢があることは幸福か?

まったく畑違いの領域に思われる基礎研究領域からも技術倫理にかかわる重要な問題を研究している人がいる。

また、最近、インフォームドコンセントという言葉をよく聞きますが、仮に病院で"治療方法を選んで下さい"と言われて選んだとして、望み通りの結果が得られなかった場合、その人は"違う方法を選んでおけば良かった"と一生後悔し続けることになるかもしれません。選択肢がなければ諦めもつくかもしれないのに、ですよ。ですから、何でもかんでも、選ばせれば良いというものではないかもしれませんね」
MYCOM PC Web ストリートインタビュー 第152回ユビキタス社会のあり様を考える研究員(3)

この引用の前段には、豊かになって選択肢が増えた結果、選んだ行為の他に選べなかった行為ができ、豊かになるほど選択肢にあっても選べなかったものがどんどん増えていく。選べたことでプラス1なら、選べなかった選択肢がマイナス2とか3とかになってしまう。豊かになったことで幸せになったといえるだろうか、という疑問が提示されている。

選択肢があることが幸せとは限らない、というのは同意できることではあるが、選択肢のない社会に戻ることは良いとは思えない。それはごく貧困な生活であったり、明日の命も分からないぎりぎりの社会に戻ることを意味しているのではないか。私はそれは不幸なことであると思う。ただ昔の人はそれを当たり前のことであり不幸であるとは認識していなかったかもしれないが。

技術倫理や生命倫理は、選択肢のある社会を所与としてその上で良い選択・幸福な選択をどう実現すべきか、また選択を迫られる個人にとっての指針を与えるものであって欲しい。というのは選択肢のない社会であったウン十年前は技術倫理も生命倫理も存在していなかったのは事実だったから。

インフォームド・コンセントについても選択するのが良いか悪いかの議論ではなく、医療の提供者と患者との対話によって、納得のいく選択、後悔のない選択を目指す考え方であり、単に選択肢を提示して「どうぞ」という無責任なものではないはずである。