人工呼吸装置取り外しの問題
生命倫理ともいえるが、技術者倫理の典型的な例。
プロフェッショナルは確固とした意見を持ち、自分の信じる方法を顧客に勧める。そんな印象を受けたが、倫理的には「配慮が足りなかった」のではないだろうか。
誇り高い技術者になろう 工学倫理のススメ ISBN:4815804850
黒田 光太郎/戸田山 和久/伊勢田 哲治 編
名古屋大学出版会 2004年
比較的最近出版された工学倫理(技術倫理と同じ意味だと思う)の本。大学・高専に入学したばかりの人をターゲットにした教科書である。
倫理の教科書というよりは、社会において技術者はどう生きるべきかについてキャリアイメージを形成するために役立つ本だと思う。本のタイトルである「誇り高い」というのは「倫理的に正しい」ということの他に、「自信を持って、やりがいのある仕事に打ち込む」という仕事をする喜びをこめてのことだろう。
第1部の『1 誇り高い技術者とは ―具体例から学ぶ』を読んで、技術に携わる仕事がすばらしいことを実感(あるいは再認識)して欲しい。
さて、この本にもフォード・ピント事件について述べられているが、私が授業で聞いた「回収改善に要する費用より、事故による訴訟で負けたときの費用のほうが安いので改善をしなかった」という功利計算の見本としての取り上げ方ではない。純粋にピントが安全に対する消費者の期待を満たしていないことだけを説明している。脚注によると、最近の研究では功利計算を実際に行って改善をしなかったことは疑問視されているとのこと。
フォード・ピント事件についてレポートを書くためにこのサイトを訪れている人が若干いるみたいですが、ぜひ同書の脚注で紹介されている本(英語)を読んでみてください(私も読んでいませんが)。
リスクに関する説明のしかた
『環境リスク論』で知られる中西準子氏のウェブサイトがある。リスクが予想されるときの伝達の仕方について示唆に富む記述があったので、紹介したい。
この初期にとられる措置は、多くの場合、後で考えれば過剰対策である。それは、間違うならば、「リスクなし」と言って人的被害を出すより、「リスクあり」と言って経済的損害を出す方が良いと考えてリスク管理を行うからである。
(中略)
適切にリスク評価をしても、その情報を出せばかなりの経済的な損失が出る。そういう場合に、どうするかを皆で考えておかなければ、リスクあり情報は出せないだろう。リスクあり情報が出せない状況で、リスクコミュニケーションを論じても意味がないと私は思うのである。
不確実な将来の損害を確実な現在の支出で補う(補いきれないかもしれないが)のがリスク対処の本質で、初期においては過剰な対策がとられることは覚悟しなければならない、ということである。
私などは、よく「落としどころを考えてから動きなさい」と言われるだけれど、まさにそうなのだろう。でも落としどころはいつでも見出せるのだろうか、という疑問はあるのだけれど。
選択肢があることは幸福か?
まったく畑違いの領域に思われる基礎研究領域からも技術倫理にかかわる重要な問題を研究している人がいる。
また、最近、インフォームドコンセントという言葉をよく聞きますが、仮に病院で"治療方法を選んで下さい"と言われて選んだとして、望み通りの結果が得られなかった場合、その人は"違う方法を選んでおけば良かった"と一生後悔し続けることになるかもしれません。選択肢がなければ諦めもつくかもしれないのに、ですよ。ですから、何でもかんでも、選ばせれば良いというものではないかもしれませんね」
MYCOM PC Web ストリートインタビュー 第152回ユビキタス社会のあり様を考える研究員(3)
この引用の前段には、豊かになって選択肢が増えた結果、選んだ行為の他に選べなかった行為ができ、豊かになるほど選択肢にあっても選べなかったものがどんどん増えていく。選べたことでプラス1なら、選べなかった選択肢がマイナス2とか3とかになってしまう。豊かになったことで幸せになったといえるだろうか、という疑問が提示されている。
選択肢があることが幸せとは限らない、というのは同意できることではあるが、選択肢のない社会に戻ることは良いとは思えない。それはごく貧困な生活であったり、明日の命も分からないぎりぎりの社会に戻ることを意味しているのではないか。私はそれは不幸なことであると思う。ただ昔の人はそれを当たり前のことであり不幸であるとは認識していなかったかもしれないが。
技術倫理や生命倫理は、選択肢のある社会を所与としてその上で良い選択・幸福な選択をどう実現すべきか、また選択を迫られる個人にとっての指針を与えるものであって欲しい。というのは選択肢のない社会であったウン十年前は技術倫理も生命倫理も存在していなかったのは事実だったから。
インフォームド・コンセントについても選択するのが良いか悪いかの議論ではなく、医療の提供者と患者との対話によって、納得のいく選択、後悔のない選択を目指す考え方であり、単に選択肢を提示して「どうぞ」という無責任なものではないはずである。
リコールの権限がないことについての倫理問題
アサヒ・コムの記事によると、いわゆるハブ破断事故による死傷事件について、三菱自動車側の被告は無罪を主張するとのこと。以下の引用は
関係者によると、被告・弁護側はこれに対し、「村川元部長は同種事故の多発を認識していなかった」「三木元部員は多発自体は把握していたものの、整備不良が原因と信じていた」とし、2人とも横浜の事故は予見できなかったと主張する模様だ。さらに、社内の権限についても言及。「当時の立場では、両被告にはリコールを最終的に実施する権限がなかった。そのため事故を回避できる可能性もなかった」と述べるとみられる。
予見できなくて、製品の欠陥が原因とは思っていないのなら、リコールの実施権限について触れる必要はないと思うだが、それはさておき、リコールの実施権限がないことと「事故を回避できる可能性がない」ことはつながるのだろうか?
リコールすべき欠陥であるかどうかは現場に近いサイドでないと分からない。実施する権限を持っているのは市場品質部長より上のレベルであるとして(社長名で官庁に届け出るので、取締役会などで議決されるだろうと思う)、彼らが実質的にリコールすべきかどうかを判断できるわけではないのが、階層組織の常である。リコールが必要な欠陥なら会社としてそう動くよう社内で働きかけを行うのが、現場にいる技術者には求められると思う。
裁判としては「権限がない」と言わざるを得ないのかもしれないが、倫理的にはそうとは言えない。なすべきことが十分なされていなかったのではないか、という疑問が拭い去れない。
顧客情報流出事故
アッカネットワークスから封書が届いた。金券でも入っているのかと中身を改めた自分が情けない。内容は以下のURLに記載されていることと同じであるようだ。
http://www.acca.ne.jp/news/20040910.html
氏名、郵便番号、住所、電話番号、申込時連絡用メールアドレス
が流出したらしい。33万件以上。Y!BBほどお金持ちでないだろうことは想像つく。500円なんか送る必要はないし、500円で自分の情報を売りたくもない。
当事者になって感じるのは、情報の流出を知ったところでほとんど何も手が打てないということだ。架空請求とかは来るかもしれないので、心の準備はできるだろうが、名前や住所をそうそう変えるわけにも行かない。電話番号もメールアドレスだってそうだ。
再発防止策だって当事者にとっては無意味だ。一度出てしまった情報は戻らないのだから。
2004/9/27 追記
ディーシーカードからもその後連絡がやってきた。なんでもお詫び状を送ったら返送されてきたので、会社に電話してきたのだとか。実はもう解約したのだが、流出はそれ以前のことらしい。