リオ宣言

1992年の国連環境開発会議の宣言(リオ宣言)が予防原則の元祖らしい。とりあえずメモ。

In order to protect the environment, the precautionary approach shall be widely applied by States according to their capabilities. Where there are threats of serious or irreversible damage, lack of full scientific certainty shall not be used as a reason for postponing cost-effective measures to prevent environmental degradation.

RIO DECLARATION ON ENVIRONMENT AND DEVELOPMENT
http://www.unep.org/Documents/Default.asp?DocumentID=78&ArticleID=1163

人体市場 ISBN:4000054481

L・アンドルーズ D・ネルキン 著
野田亮 野田洋子 訳
岩波書店 2002年
人体市場―商品化される臓器・細胞・DNA
生命倫理を考える上で、「商品化される臓器・細胞・DNA」という副題のついたこの本を読んでおくことは、特に臓器提供を推進する人にとってはその負の側面を見るために、必要なことだとおもう。
この本には、遺伝子診断やDNA鑑定、臓器売買などの暗黒面を示す事実だけが強調されている。でも事実なだけに目を背けられない。

技術倫理とディベートとの関係

ディベートとは、自らの主張を第三者にも納得してもらうために十分な情報収集をすることを含み、さらに相手の立場ならこう出るという予想を元に、反論も用意しておくというかなりタフな知的な営みであることが分かった。
組織や社会においてディベートの手法をつかってまで主張を通す必要のある機会は多くはないかもしれないが、自らの倫理的判断を批判的に検証し、それでも現実に行われていることとの矛盾に悩むときに、その解決を組織的に行う力となるだろう。公式なディベートでなくても議論を繰り返すうちに自分の主張していることには明確な根拠がなかったり、ある立場からの見方が欠落していたり、ということに気がつくことがある。自分で考える手段としてディベートという形式を取り入れることは無駄ではないだろう。

ザ・ディベート ISBN:4480058923

茂木秀昭 著 ちくま新書 2001年
ザ・ディベート―自己責任時代の思考・表現技術 (ちくま新書)
昨年受講した「科学・技術と人間の倫理」という授業では、3つのコースが併走しており、私が参加していない1つのコースでは、学生同士によるディベートを試みていた(id:tshiga:20040120 を参照)。
ディベートにはきちんとした形式があり、「某テレビ局のニュース番組でのダイオキシン汚染野菜報道被害」についても、限られた時間ながら「テレビ局には責任はない」という側と「テレビ局に責任がある」という側に分かれて立論と反駁(結論と言っていた)が行われた。授業で行われたフォーマットは以下のとおりであった。

肯定側の立論
否定側から肯定側への反論
否定側の立論
肯定側の結論
否定側の結論
参加者による評価

ディベートを目にするのは、このときが初めてであり、参加されていた学生のレベルの高さに驚いたもので、私もディベートの訓練を受けたいと思ったと同時に、大学の初年度の授業としてディベート専門の授業があってもよいくらいであると考えた。それくらい、論理的思考と合意形成のベースになるスキルであり、可能なら必修にすべきだろう。

さて、本の紹介。

この本によると、「二人制競技ディベート」と「略式ディベート」の2種類について述べられており、略式においても結構複雑なフォーマットをしている。

肯定側の立論(2分)
否定側の立論(2分)
肯定側の第一反駁(1分)
否定側の第一反駁(1分)
肯定側の第二反駁(1分)
否定側の第二反駁(1分)
肯定側の結論(1分)
否定側の結論(1分)

本書で非常に参考になるのは、ディベートの種類と立論の形式である。この本によるとディベートには3つの種類がある。

事実ディベート(過去に限らないが事実について議論する)
価値ディベート(主として倫理的な議論になる)
政策ディベート(ある政策をなすべきかについて議論する)

私が体験した授業でのディベートは価値ディベートなんだな、と分かる。ただ、価値ディベートと政策ディベートとの間は結構あいまいで、政策とは価値に基づいて行われるので、結局のところ「立論の基本となる哲学」が一貫していることが大事なのだそうだ。

立論の形式としては主張すべき事柄の性質において、以下のどれかを採用すべしというのである。

問題解決型の議論(何かをやるべき、というスタイル)
制度廃止型の議論(何かをやめるべき、というスタイル)
現状維持型の議論(上記の2つの否定側に用いる)
比較優位型の議論(2つの案のどちらかが優れているという形式)

この類型は組織において何かを行うときにも参考になるのではないだろうか。

リコーグループ社会的責任経営報告書2004

時々であるが、社会的責任経営(Corporate Social Responsibility = CSR)という用語を耳にする(というより目にする)ことがある。CSRをちゃんとやっている会社は業績もよいとかで、CSRに注目した投資ファンドもあるらしい。*1

リコーグループでは2004年に初めて社会的責任経営報告書を刊行した。環境報告書を出している企業はかなりあるが、CSRの報告書を出している会社はまだ少ないと思われる*2。この報告書は、リコーのホームページから請求すると無料で送ってくれる。また、PDF形式のデータとしてダウンロードすることもできる。

リコー・企業の社会的責任のページ
http://www.ricoh.co.jp/about/csr.html

また、リコーグループでは「CSR憲章」というものを策定しており、企業の行動原則を示している。この憲章のもとに「行動規範」が定められている。CSR憲章も行動規範もリコーグループが定義している社会的責任の4つの分野を意識して作られている。

  1. 誠実な企業活動
  2. 環境との調和
  3. 人間尊重
  4. 社会との調和

報告書によると、企業の社会的責任はまだ明確な定義が存在していないらしい。ただ、一般的な企業倫理をこえる範囲の広い概念のようである。安全衛生や法令順守は倫理以前の問題であるし、社会貢献活動は倫理を超えている部分であると思う。

また、環境についてもCSRの中に含めているが、リコーグループでは「環境経営報告書」というものを別に公表している。両者の関係が気になるところだ。もちろん環境経営報告書のほうが歴史がある。

内部告発にかかる対応については「ほっとライン」という相談窓口をリコーのCSR室と弁護士事務所においているようである。また、情報セキュリティも「誠実な企業活動」のひとつとして位置づけられていることが興味深い。

リコーの桜井社長の巻頭言には以下の言葉があった。

企業の継続的成長と発展は、社会の持続的発展なしにはありえません。

また、本文の7ページにおいてはよく似た記述があった。

業績(利益)と対峙する形で社会的責任があるのではなく、両方を共に追求し、目標を達成することが企業活動の基本であると考えています。

CSR投資ファンドに採用されることから見ても、企業の業績と社会的責任は両立可能であるという楽観的な考え方がCSRという考え方の本質のようだ。では、社会が持続的に発展しない状況下で、企業はどう振舞うべきなのか、両方を共に追及してもなお矛盾が起きるときにどうするのか、報告書の中で回答すべきことではないのかもしれないが、気になるところだ。

*1:こっちは社会的責任投資(Social Responsible Investment = SRI)と言うらしいので、CSRとは同じではないかもしれない

*2:以下のURLの記事を見る限り、数社はすでにCSRの洗礼を受けており、報告書があると思われる。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/47/naruhodo108.htm

自動車のリコール制度

三菱自動車の場合、リコールすべき欠陥についてそれを隠蔽したことが問題になっているが、リコール制度やその限界について復習しておきたい。

リコール制度は、昭和44年(1969年)から運輸省の省令で実施されてきたが、法律の裏付けができたのは平成7年(1995年)からであり、道路運送車両法によって定められることとなった。法律では「保安基準」というものを定めており、設計または製造時の問題で、これに適合しない(またはその恐れがある)車種について無償で修理をするべく運輸大臣(今なら国土交通大臣)に届け出る制度である。

平成14年(2002年)には、自動車メーカー等からの届出だけでなく、大臣がリコールを命じることができるように改正された。とはいえ、実際には国が自動車の欠陥を指摘することは難しいようである。

リコール制度の欠陥については、日弁連からも三菱自動車の2000年のリコール隠しに関連して、以下の提言が出ている。

http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/iken/00/2000_21.html

リコール隠し三菱自動車だけでないこと。自動車の事故情報やクレーム情報がメーカーに集まるだけで、その情報が監督官庁にも開示されず隠せてしまうこと、などなど重要な指摘がある。一部は2002年の改正で盛り込まれている。

また、以下の意見も欠陥の公表という倫理問題について考えさせられる指摘である。

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/nagatsuma/ronten.htm

自動車は道路運送車両法で、保安基準を満たしていない車両に関してリコール届け出による製品回収・無償修理を企業に義務付けている。しかし、自動車メーカーが運輸省にリコールを届け出る場合、①原因と対応策の確定、②できるだけ早く無償修理を終える、③そのための部品の確保、など体制が整っていないと実際には難しい。②に関しては、運輸省の非公式の指導や、販売店からの要望などを勘案し、「三カ月以内におおむね九〇パーセントの無償修理を終える」ことを目標として、準備を整えた後、リコールを届け出ているメーカーもある。リコール届け出に対するハードルは高い。

公表とか報告というのは難しいもので、特に原因が分からないものや対策が取れないものについては、まず公的な場に出すことができない、とたいていの人は自分がその立場なら考えるのではないか。

自動車のリコール制度の場合、無償で改善を行う必要があるわけだから、原因が分からなければ保安基準に適合しないことが明白であっても手の施しようがない。

仮に対応策が確定していなくても、危害発生を防止する観点から、迅速に危険情報を公表する、危険情報公表法(仮称)が必要と考える。

危険情報について速やかに公表しなければならない、そのようなインセンティブがはたらくように懲罰的な罰金などを制度化するのもやむを得ない、と上記の文章は指摘していると読み取れる。

それはもっともなことで、ぜひ実現して欲しいものだが、原因や対策が簡単に分からないのと同じくらい、危険性や不具合があるかどうかも容易に判断することはできないのではないだろうか。どのようなことをすると危険なのか、それすら明らかでないことがあるように思われる。

自然災害でも人災でも、危険を判断し呼びかけるのは全人格を問われるしんどい瞬間だと想像する。この時に「公衆の安全」を第一に考えることができるかどうかが、技術倫理を実際に生かせるかの分かれ道だと思う。

リコール制度は、会社が大臣に届け出る(大臣から命令することもあるが)ため、一技術者が自分の判断で勝手にリコールすることはもちろんできない。そうすると、会社の決定でリコールが握りつぶされたとき、技術者が公衆の安全を実現するためにとれる方法で、内部告発以外に効果的な方法があるだろうか。

会社が正しく経営を行うために、会計監査以外にもいろいろな業務の監査を第三者から受けるとか、情報を公開するなどして健全性を維持していかなければならない時代が来ているのかもしれない。

オムニバス技術者倫理

編集・発行 室蘭工業大学技術者倫理研究会
2004/3/31

この本は北大で1月に行われたワークショップ「技術者倫理の構築」に参加した際、発表をされていた室蘭工業大学鈴木先生にわけてくださったもので非売品。この4月から室蘭工大で教科書として使用されていると聞く。

機械・情報・土木・電気・化学・材料のそれぞれの分野の専門家が事例研究をしているのが面白い。たくさんの実例や問いかけがあるので、勉強にはちょうどいい。