胎児選別の倫理問題

なお、出生前遺伝子診断のリスクを避けるには、体外受精で受精卵をスクリーニングする方法がある。これ自体も「生命の選別、障害者の排除につながる」と反対する意見がある。
母体血清マーカー試験は妊婦から採血し胎児のダウン症の診断に使われるが、人工妊娠中絶を招くとして同様の批判がある。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/angle-3/Jun97-6.html
「生命の選別」批判をする立場からは、胎児や受精卵を生命とみなすという結論になる。しかし、胎児や受精卵を生命とみなすのには、そう信じているからではなく、別の理由があるのではないか、という疑問がある。私の率直な意見をいうと、選別が行われることによって障害者の数(割合)は減少することになる。あまりにも少数の集団となってしまうことで、権利が保護されなくなったり、社会的関心が減ってしまう(ひいてはその集団の利益にならない)ことを危惧しているのではないか、という疑問である。もちろん、自分が持っている障害を理由に受精卵スクリーニングをしたり人工妊娠中絶をすることは、他人のこととはいえ、その障害を持つ人にとって尊厳を傷つけられる行為だと想像するのだが。
また、診断を受けずに障害者が生まれた場合、診断の結果疾患が確認されたことを承知の上で出産する場合、その子、そして親は「あえてそういう選択をした」という意味で差別される可能性がある。その意味で「障害者の排除につながる」という批判は正しいのかもしれない。
障害者には適切な社会的な支援が行われ、個性を持った人間として尊重される一方、障害者を生む原因は可能な限り取り除くという社会は実現不可能なのだろうか? 「障害者を生む原因は可能な限り取り除く」という考え方そのものが誤りなのだろうか? 障害者と障害そのものを分けて考えることはできないのだろうか?
以前、聾唖者につける人工内耳(音が聞こえるようになり、努力次第で話もできるようになる)が聾唖者のコミュニティに深刻な分断をもたらしているというドキュメンタリー番組を見た。人工内耳をつける希望を持つ人もいれば、聾唖者のままで良く手話の文化にとどまりたいという人もいる。そして、人工内耳をつけようとする人に聾唖者のままでいるよう説得する、というシーンがあった。
各種の難病が遺伝子治療やその他の治療で治る可能性が高くなったときに、それを希望する人とそうでない人との間で深刻な対立が起こるかもしれない。そこには「生命の選択」という問題は存在しないが、「障害者の排除」という問題が引き続き横たわっている。
私は、自分の意志で治療を受けようとする人を「障害者の排除につながる」という理由で反対することには賛成できない。その人の権利の重大な侵害だと思うからだ。また、生まれてくる子が障害や重大な疾患を持たないことを願うこと自体には反対するつもりはない、ただ、スクリーニングや人工妊娠中絶が本当に必要なほど重大な障害や病気なのか、妊婦や家族がその障害についてどの程度正しい知識を得ているのか、その人にとっては幸福を願っての行為が社会的に及ぼす悪影響がないのか、慎重に判断すべき事柄であると思う。その意味でインフォームド・コンセントは絶対であるだけでなく、妊婦や家族へのカウンセリングも重要である。
自分の妻の出産のときにそんなこと聞いたことないし気にしたこともないが、検査はしたんだろうか?