最後の授業

本日は、3クラス合同のまとめの講義がおこなわれた。タイトルは「科学・技術に対する地球市民の責任」という大きなもの。本講義のポイントは以下のとおり:

  1. 技術の発達は人間や社会を変えていく。一方で技術は社会の影響や要求を受けて進展する。
  2. クランツバーグの法則*1の説明。特に重要な第一法則だけあげると「技術は善でも悪でもなく、また中立でもない。」というもの。
  3. モラル・ヒーローという概念。技術者には公共の福祉を守るために自発的に個人的な犠牲を払わなければならない。アルパーンという人の提唱。でもモラル・ヒーローだけで解決できるわけじゃない。
  4. 配慮の原理。技術者に当てはめて言えば、技術者はその知識と技術が社会に与える影響が大きいのだから、その行為による悪い影響を避けるよう「大きな配慮」をするべきである。
  5. 危険や害悪の予測不可能性。
  6. 技術者の倫理は技術の倫理に、技術の倫理は人間の倫理によって支えられている。技術者の倫理は安全の確保であり、技術の倫理は自立的選択の確保であり、人間の倫理は人間そのもののが目的である。アリストテレスによれば、技術とは善い行為を生み出すもの、なんだそうだ。
  7. 「幸福に生きる」とはどういうことか。しばしば快楽主義的なものになっていないか。
  8. 自然の自己調節機能を破壊することは、人間の本性の破壊につながるのではないか。でも技術を持たない人間というのはありえないだろう。

なんか、ちっともまとまっていない。この授業に単一の正解はないし、今後問題にぶつかったときの道具として使っていけばいいと思っているので、結論は聞きそびれたがちゃんとした結論は述べていなかったのかもしれない。この先生はカント倫理学の先生なので最終的な帰着は「人間そのものが目的」ということになるのだろう。

私にとって意外だったのは、「技術は中立でもない」というフレーズ、そして「幸福に生きるとはなにか、幸福を概念規定するのはとても難しいことだ」という説明だった。前者は技術は開発者の意図を超えてしまうこと、その結果にも何らかの責任があるということを言いたいのだろう。また、後者は功利主義に対する批判でもあるのだろう。

科学技術によって可能になったことを単に望むことが本当に幸福追求なのか、なかなか厄介な問いである。

各種の問題を判断するときに、自分は/相手はどこのポジションに立っているのか、事実認識の違いなのか持っている原理原則の違いなのか、一貫性のある主張なのか否か、合意可能な主張かどうか、といった見方ができるようになった(かもしれない)のが一番の収穫である。

*1:北大の経済学の先生のページでも引用されていた。http://www.econ.hokudai.ac.jp/~yoshida/articles/waste.htm