共有資源の問題

経済学は限られた資源の適切な分配方法を考察する目的で始まったといわれている。実はとても倫理と結びつきの高い学問だと思うのだが、倫理学に興味を持つ経済学の人はあまり少ないようだ。かえって理科系の人が突き詰めて考えているように思われるのが興味深い。

その中で、山形氏の「自由には必ず責任伴う」という朝日新聞に掲載された記事を考えたい。

自分でできる部分は自分でやり、それを越える部分は社会全体でプールしたリソースで対応。それが多くの場面での社会の仕組みだ。公私の境界については諸説ある。でも個人が負担する責任があることは絶対否定できないんだよ。

社会のプールは有限だから、真に有用な活動のために温存しよう。自己努力をさぼってプールを浪費したがる個人は拒絶するか、プールの目減り分の一部負担を要求するのが正しい社会運営だ。

山形浩生「自由には必ず責任伴う」
http://be.asahi.com/20040515/W12/0025.html

共有資源を有用な目的に使うべきで無駄遣いすべきでないことはたいていの人は納得するが、共有資源は「自分でできる部分を越えてはじめて使う権利が生じる」ものであったり「有用でない目的に使ったら補填すべき」ものなのだろうか。

山形氏の論法で行くと海外に観光旅行に行って現地ゲリラに拉致されちゃうと、「有用でないことで海外に行ってしかも十分な責任をはたしていない」といわれるだけになってしまうけど、それでいいのだろうか。

自動車保険のようなモデルで説明できるほど、「社会のプール」というのは単純なものではないように感じる。減った分を個人が負担すべき性質でないものを社会の共有資源というのではないか。(山形氏もあらかじめたくさん負担しておけばそこから引き出す権利があるとまでは言わないと思う。)

会社を責める前に

今回の件で三菱をいくらでも非難することができる。でも、三菱という日本が誇るべきブランドがこのように惨めになった原因は、三菱の重役や社員ばかりの責任ではない。現代の日本は「目の前のことを否定し」「さほど悪くないことをした人をリンチし」「一市民の離婚を報じて「国民の知る権利」という」というように「何でもあり」の社会になってしまったのである。

名古屋大学 武田邦彦教授のサイト「三菱のトラックと鳥インフルエンザ
http://www.numse.nagoya-u.ac.jp/F1/proftakeda/00/040407/mitubisi.htm

北大での「科学・技術と人間の倫理」では「つつしみ」と「いましめ」から講義がスタートした。社会全体からこれらの徳が失われていることも、会社が過剰な組織防衛をすることにつながっているのかもしれない、と感じさせられた。
「さほど悪くないことをした人」を執拗に糾弾する(リンチとは言わないが)傾向があちこちに現れている気がしてならないのは、武田先生だけではないだろう。年金の未納問題はこれほど騒ぐに値することなのか、NHKの受信料や受診契約でも同じようにバッシングをするつもりなのか、イラクで人質だった人が犯罪者であるかのように主張するのも同根ではないだろうか。
一方で、この反作用で企業側の過剰防衛と見られる行為も多々見られる。

鳥インフルエンザの場合は、風評被害を過剰に恐れての感染隠しとも思われるし、自動回転ドアを撤去する動きもそのひとつ。技術倫理ではないが、ハンセン病宿泊者拒否問題で廃業したホテルの例が「逆切れ」に思えてやはり痛ましい。
http://www.ai-star.co.jp/kaiken/kaiken_f20040501.html

過剰な反応は帰結主義の立場からしても「よい結果を生まない」ことを心に留め置きたい。

駅のホームのほうが危険だが

自動回転ドアより駅のプラットフォームのほうがよほど危険であり、回転ドア事故の件では騒ぎすぎではないかという意見を見かけた。
実は駅のプラットフォームはきわめて危険であり、実際プラットフォームから転落する危険性は一般に広く認知されている*1し、駅の構内放送で注意を喚起している。転落した場合、電車が近づき具合によっては安全に停車できる可能性がほとんどないことも承知されているだろう。
自動回転ドアの危険性はそのレベルには認知されていない、統計が取られていないこと自体認知されていない証拠であるということを言いたいのである。
にもかかわらず、プラットフォームにも安全柵や自動ドアといった安全対策は乗降客の多い駅や狭いプラットフォームにおいては必須であり、「教育」だけに頼ってはいけないと思われる。落ちた場合を想定した退避方法や対策も検討されるべきだろう。

*1:鉄道事故統計」を国土交通省が毎年まとめている。平成13年度の統計によると822人の死傷者・そのうち313人の死亡者が出ており、「ホームでの接触」と「ホームからの転落」によって27人が亡くなっている。ただし自殺はこの統計に含まれていない。飛び込み自殺(鉄道とは限らないようだ)については1998年から2000年までに471件という統計が国立保健医療科学院の統計にある。

医療倫理 ISBN:4326101385

浅井篤 服部健司 大西基義 大西香代子 赤林朗 著
医療倫理
医療に携わる人(倫理学や哲学を学んだ経験もある)が書いた医療倫理に関する本。インフォームド・コンセント、告知、安楽死、延命治療、人工妊娠中絶、倫理委員会など広範な主題を含む本である。

インフォームド・コンセントについては、裁判(『医療倫理』pp58-59 によると、シュレンドルフ事件、サルゴ事件、ネイタンソン事件)を通じて確立されてきた概念であるため、医師が訴訟を回避するための手続きに過ぎないという誤解もある、と説明されている。

医師は、患者を完全に治すことはできないのが普通であるし、医師が推奨しない治療法を選択した場合さらに望ましくない結果になることが予想される。しかし、治療法を選択させても後から「だからいわんこっちゃない」と医師が言ってしまえば、患者に絶望を与えるとともに、その時点で患者の自己決定を尊重しないというメッセージになる。それはインフォームド・コンセントとは言えないだろう。

行政の調査

国土交通省都道府県に指示して自動回転ドアについての実態調査を行った。
国土交通省では4月19日に発表されている。
http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha04/07/070419_.html
私の地元北海道の分は4月15日付けで道内分が公表されている。
http://www.pref.hokkaido.jp/skikaku/sk-skoho/kisya/2004/k040415-03.pdf
道内の報告を読んでも、乳幼児の怪我が数件報告されていることに改めて注目すべきである。子供が怪我をしても「自己責任」だと思い込んでしまってビル管理者にクレームをつけなかった分が報告されている以上にたくさんあることは想像に難くない。
現在はすべてのビルで回転ドアの利用を停止したり処置しているが、森タワーの事故の前に乳幼児の事故をうけて対策したビルがあったかどうかは不明なことが気になる。
子どもの事故を報告された時点でビル管理者は対処が必要であったのだが、はたしてそのレベルでの決断ができたかどうか。リスクには人間鈍感なものである。事故が多発していた森ビルでさえできなかった決断が、数件の事故をもって使用停止にまで踏み切ることは考えにくい。
技術倫理の重要なテーマは利用者や消費者の安全確保である。
今回の事故を教訓にして、使い方によって危険なものはその危険性を利用者が明確に認知できるように、遅まきながらでもその危険性を表示し、子どもやお年寄りなどのために別の入り口を用意する必要があるだろう。

自己責任論に対するパウエル国務長官の見解

米国国務省のウェブサイトに日本のテレビ局が行ったインタビューが掲載されている。
http://www.state.gov/secretary/rm/31489.htm

But even when, because of that risk, they get captured, it doesn't mean we can say, "Well, you took the risk. It's your fault." No, we still have an obligation to do everything we can to recover them safely and we have an obligation to be deeply concerned about them. They are our friends. They are our neighbors. They are our fellow citizens.

共同体が構成員を助けるという共同体の倫理の基本が平易に述べられている美しい発言だと思う。自国の政治家たちと比べてしまい、自分が日本人であるのが嫌になった瞬間だ。